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2014.06.20 Friday

愛猫との別れから、ペット供養について考える

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    少し前のこと。

    妻の実家には4匹の猫がいる。
    そのうちのほとんどは、野良猫が産み落とし、何らかの理由で敷地内に放棄していった子猫を
    義母が見過ごすことが出来ずに拾い上げた猫たちである。

    ぐりこ。メス 推定20歳。長老である。


    (10歳ごろのぐりこ)

    この猫は、本当に穏やかで自分から人に寄って行き、何をされても爪など立てたこともない。
    他の3匹とは次元の違う性格である。

    2週間ほど前から体調を崩し、何も食べることが出来なくなり、3日前から予断を許さぬ状況に・・・。

    ほとんど動くことが出来ず横たわっている姿。
    はじめは、動物特有の四肢を使っていつでも立とうという感じだった。

    しかし、日が経つにつれ、手も足も伸びた状態になり、その姿はまるで布団に寝ている人間の姿に見えた。
    おかしな話だが、私には、確かにそう感じ取ることができた。

    4日目の午前10時。息を引き取ったという連絡が入った。

    すぐに身支度を整え、枕経に向かう準備。
    その前に改めて、「浄土宗の法式」にてペット供養のお経の指針を調べる。

    特に日常のお勤めと変わりは内容であるが、ただ一点、

    「若有畜生類 聞弥陀名号 永離三悪道 決定成往生」 という回向文を唱える、とある。

    つまり、畜生類は阿弥陀仏の名を聞くことにより三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を離れ、
    (次の生で)往生できること、を示している・・・と思う。。。
    いや、それとも弥陀の名号を聞いて往生が決定するととらえるのか・・・。

    たしかに動物はお念仏を称える事はできない。
    でも心の中はどうなんだろう???

    たとえばお盆の起源で有名な話、
    目蓮尊者のお母様は、お釈迦様の教えと功徳によって餓鬼道から極楽往生を遂げられた。


    できれば次生でなく今生で往生を遂げてほしい。。。
    そう願うのはただ身近な存在で、思い入れがある猫であるからなのか・・・。
    いろんなことが頭の中を交錯しながらも、私は、一人の僧侶としてお勤めをした。




    高齢独居者がペットを拠り所として家族同然に暮らしている今の世の中。
    この先、ペットの供養を依頼されることもあるかもしれない。

    ペットの往生について、しかるべき説明ができる準備を整えなければいけないと思うのであった。
     


     
    コメント
    今月3日。 家族同然に19年と5カ月を暮らした愛猫を亡くしました。 
    猫とも思えない存在でした。 お互いに愛情をもって接していた、と信じています。
    最期の日々には、猫の本能に反して、冷たい場所に移動せず、最早、立つことも出来ない身ながら、這って私のいる場所まで来てくれました。 片時も離さず介護をする覚悟でしたが、倒れて五日目に空へ昇りました。 綺麗な顔をしていました。

    未だ四十九日を迎えていませんが、世間的供養をするために、納骨の願をしたお寺があります。

    我が家の宗教ではありません。 東大阪市にあります長栄寺、と言う新真言宗のお寺です。 このお寺は、動物のための供養を誠心誠意にされておられることで有名なのです。

    仏教では、動物は「畜生」と呼称されているようですが、それは、私等には承服出来かねるのです。 

    私と暮らした猫が特別であったのかどうか、判然とはしませんが、人とは違い、裏切ることはありません。 表裏の無い心情で、私を信頼してくれているのが分かりました。

    人で無くても、世間的に冥福を祈り、その存在を何時までもとどめたいと思いお寺に納骨をしたいのです。 

    実際には、私は、宗教を信じてはいません。 ただ、どのような形式であっても、永年の間、ともに暮らした愛猫を弔いたいのです。 納骨するお寺が動物愛護に熱心なこともあります。 

    どのような宗教、宗派であっても、真に動物の供養を願われることを期待しております。 猫であっても、納骨により末永く、その存在を祈念したいのが、永年ともに暮らした者の願であるからです。 
    • とら猫イーチ
    • 2016.10.27 Thursday 20:26
    小規模な寺院ですが、この1年の間にペットのご供養を三度程させていただきました。

    それぞれ施主様のお話をお聞きすると、その度にペットへの愛情を深く感じ取らさせていただくことが多いです。

    その時に飼い主様にとってペットとは「善知識」なのであると思うのです。

    「善知識」とは仏教へ導いてくださる存在の事ですが、信仰を抜きにして単に良き方向へ導く存在、善き友であると解釈できます。

    飼い主にとってそのようなかけがえのない存在であったのならば、それはもう「畜生」などではないと私は捉え、今後も供養を続けてまいりたいと思います。

    コメントありがとうございました。
    • 管理者
    • 2016.10.28 Friday 18:56
    拙いコメントにお答えいただきまして有難う御座います。 

    特定の宗教を信じていない者であっても、今生の別れをしたもの(人も猫でさえも)を弔う心情とは無縁ではありません。 

    特に、家の宗教とは無縁ではありません。 何れにしても仏教ですが。 

    我が家の宗教は、浄土真宗本願寺派ですが、私自身は、拘りをもっておりません。 

    この時代、お寺を維持し、宗派の発展を期すのもなかなかに困難な時世ですが、貴ブログを拝見しまして、真摯に努めておられる方の存在に、心の安らぎを覚えました。

    有難う御座いました。
    • とら猫イーチ
    • 2016.10.31 Monday 20:22
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